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石井さんが母校のグラウンドへ
1972年5月8日
グラウンドには、2日前の春季千葉県大会三回戦で敗退し、憔悴しきっている部員たちがいた。0対6の結果以前に、成東・鈴木孝政投手(元中日ドラゴンズ)の豪速球をバットに当てることすらできないという完敗であった。そんな活気のないグラウンドにゆっくりとその人は現れた。石井好博さんだ。
5年前の夏の甲子園優勝投手が母校習志野高校のグラウンドに帰ってきた。その瞬間グラウンドの空気は一変した。それは歓喜というよりもむしろ安堵に近いものであった。
前年秋、新チームは対外試合を20勝5敗と大きく勝ち越した。俺たちはやれる、そんな自信を胸に県大会に臨んだ。ところが、2回戦対一宮商業、6対2とリードし9回2死ランナー無し。そこからなんと5点を奪われ大逆転負けを喫した。次々と外野手の頭上を越えてゆく打球になす術なく、選手は奈落の底に突き落とされた。試合後、千葉公園でのミーティングで麻生監督の口から出た言葉は
「2年生はもういらない!」
この言葉に2年生は即座に反応、「したっ!」(運動部特有のあいさつ)と言い残し、全員その場を立ち去った。翌日から2年生は誰1人グラウンドに現れることはなかった。学校を辞めよう、転校しよう、と懊悩する部員もいれば、ルンルン気分で自動車教習に通う者もいた。
一方、強力なメンバーがそろっていた1年生は喜んだ。目の上のたん瘤が自然消滅したのである。1年生チームは、掛布君を中心に、その後の練習試合で上級生の強豪チームにも何ら臆することなく連戦連勝を重ね、我が世の春を謳歌した。
悶々とした日々を過ごす2年生を見かねたのは越川道弘部長である。1か月が過ぎた頃、
「石井君を呼んでくるから2年生はグラウンドに戻りなさい。」
越川先生から届いた天の声だった。
「信じよう!越川先生を信じてまた野球をやろう!」
そうは言っても麻生監督との確執はそうたやすく消えるものではない。2年生は1人、また1人とグラウンドに戻ったものの、ユニフォームの着用は認められず、ジャージ姿で球拾いの日々。許された練習はランニングのみ。一方、1年生は元気に高校野球をエンジョイしていた。
数日後、2年生は麻生監督の「復帰ノック」を受けることになる。この時、わだかまりは消えていたわけではなく、お互いの感情がぶつかり合い、2年生のみならず1年生さえも涙する凄まじいノックであった。
そして復帰を快く思わない1年生に2年生は謝罪した。同時に「殴れ!」と顔を突き出し、1年生はそれに呼応し、手を振り上げた。
その頃、越川部長は自身の考えを実行に移していた。早稲田大学4年生の石井さんは、越川部長の説得を受け入れ、内定していた企業への就職を辞退。そして一度は断念した教職課程を学ぶために留年を決意する。そして、母校のグラウンドに帰ってくることになった。とは言え、監督でもなければ責任教師でもない。OBコーチという立場だろうか。このままでは夏の県予選のベンチに入ることはできない。3年生の我々8人は、監督と衝突せずにやれるのか?石井さんは最後まで練習を見てくれるだろうか?明日は来てくれるだろうか?石井さんのベンチ入りを願い日々心は揺れ動いていた。
6月29日、突然、石井さんベンチ入りの報が飛び込んできた。越川部長が自ら退き、麻生監督が部長へ、そして「石井好博監督」が誕生した。
7月15日、第54回千葉県高校野球大会開幕。石井監督率いる習志野高校はBゾーンを順調に勝ち上がり、銚子商業と共に東関東大会(千葉県―茨城県)へと勝ち進む。1回戦竜ケ崎一高を9対0で勝利。決勝戦、好投手根本隆を擁する選抜ベスト4の銚子商業を2対0で撃破、155校の頂点へと駆け上がる。石井投手を擁し全国制覇した49回大会以来5年ぶりの甲子園出場を果たすことになる。
「あの石井が帰ってきた」「学生監督石井」「兄貴監督」マスコミは挙って称賛の声を上げた。
翌年「習志野にいけば銚子商業を倒せる」そんな強い思いを胸に入学した小川淳司君や福田弘俊君らは3年後、宿敵銚子商業を倒し甲子園へ、そして全国の頂点へと駆け上がった。
106回を数える夏の高校野球の歴史で、優勝投手が別のチームの監督として優勝したり、優勝の瞬間マウンドにいなかった投手が母校を率いて優勝した例はある。しかし、正真正銘の甲子園優勝投手が母校の監督として優勝したのは、石井さんただ1人である。更にここにもう1つ付け加えて欲しい。監督就任後33日、最短での甲子園出場監督と。
石井さん、あの日、あなたが津田沼のグラウンドに足を踏み入れることがなければ、私たちの甲子園出場はなかったのです。その上に、今の私の人生があるのです。
心からの感謝の気持ちを、こうして伝えなければならないことを無念に思いつつも、今はただただ安らかにお休み頂くことを願います。
佐藤繁信